n°20 投票に行くべきか
今月(7月)末に参議院選挙が行われますね.
本当は前回の選挙のときに書きたかったのですが,うまく考えがまとまらなかったので遅れてしまいました.
私は小学生の頃毎朝起きたらテレビがついていて,自然とニュースを見る癖がついていたからか,ずっと選挙に行きたいと思っていました.
そのため,私は全国民が選挙に行くべきだという考えに囚われ続けることとなります.
つい1年前ぐらいまではそう思っていたのですが,ブログを書いたり哲学的なことを考えるにつれて,本当にそうなのだろうかと疑問を持つようになったわけです.
本ブログでは一般に良く言われている投票に行くべき理由や,行く必要がない理由を斬りつつ,結論を導いていく形にしたいと思います.
そのための前提としてですが,~すべきというのは,目的(誰の目的かは問わない)があってそれを達成するためにおこなった方が良いことに対して言うわけですよね.
つまり,「投票に行くべき」という文が表す内容というのは,具体的に以下の3つに分かれると考えます.
①国民全体がそれぞれ目的を持っていて,投票に行くことで全員の目的が達成される方向に近づく.
②投票に行くことで国のためになる.
③それを言っている人の私利私欲のために行ってほしいという願望.
私は,「投票に行くべき」と言っている人は基本的に全国民への善意 で言っていると思っていますが,皆さんはどう思われますか.
それでは,今挙げた3つの視点からよく言われる「投票に行くべき」あるいは「投票に行く意味がない」理由を斬っていきましょう.
「投票に行くべき」理由を斬る1
投票に行かないのに世の中に文句を言うのは矛盾しているから
まず,この理論では文句を言わなければ投票に行かなくて良くなるため,「投票に行くべき」が一般論ではなくなりますね.
また,例えば国民が集まってデモをする方が政治が変わる可能性があることは排除しきれないですよね.政治への関わり方は人それぞれです.
また,①という意味で言っているならば,そもそも政治が変わることがその人の目的を達成する最短経路ではない場合もある.道中で迷惑なことをされてその後文句を言うことは別に問題ないですよね.
つまり,文句を言うことは投票をしていなくてもして問題ないということになります.(文句を言っているやつがうるさいという理由ならば,③になりますね.)
「投票に行くべき」理由を斬る2
投票率が低い年齢層に属しているとその層に向けた政策が反映されにくいから
そうでしょうか?
次のような論理も成り立つ気がしませんか?
例えば若者が働かなければ高齢者は介護,生活的支援を受けられないですよね.
つまり,よっぽど頭の悪い政治家が政権を握らない限り高齢者が生きやすい国というのは若者もある程度生きやすい国でなければいけないと分かるでしょう.
だから,政治家はある程度バランスの良い政策にしなければいけなくなります(もし若者に不利すぎたら動けばいいだけではないでしょうか).
これはあくまで仮説にすぎないですが,若者に不利な政策ばかりになるというのも仮説ではないですか?
だって政策の効果は検証するのが難しいものが多いですし,バイアスで判断してしまう人もいるでしょうから.
しかし,高齢者だけの政権というのは必ずしも国益のために動かない可能性が考えられます.それは少子化対策をしないということです.
これがなぜ起こるか説明する必要はないでしょう.
つまり,②の視点で見ると投票に行かないことは危険性があることになります.
「投票に行く意味がない」理由を斬る
投票に行く大半が高齢者だからどうせ変わらないから(自分が投票しても変わらない)
前回の国民民主党がかなりの議席を得たことによって実際に103万の壁は引き上げになりましたよね.(これは国民全体の利益①,国益②とは言い切れないですが)
確かに弱小の政党にあなたが一票を投じたところで何も変わらないでしょう.しかし,世論が揺らいでいるときに選挙に行くことは意味がある場合もあるのです.
結論:
①一般論で行くべきかは言い切れない.(一人でもそ人の目的の達成と関係なければ反証されてしまう.)
②国の利益になるかは場合による.(因果関係は絶対にわかることはない)
③自分の人生の目的を達成する近道なら投票に行くべき(であるし,世の中をそう仕向けたいなら「投票に行くべき」と言う意味がある).
だから,一般論として選挙に行くべき根拠ってないんですよ.(行く意味がない根拠もない)
私はどうなのかということですが,行きます.
理由は以下の2つ
①政治について考えるのが楽しい.
②(行っていない人がいるからこそですが)自己肯定感が高まる.
はい.やっぱり人によるでしょう.
何も考えずに(大抵の人は自分が考えていると勘違いしている気がしますが)「投票に行くべき」,「投票に行く意味はない」と言っている人に届いたら良いと思います.
私はこの文章を考えて書いているつもりですが,間違いがあるかもしれないので教えてくれるとありがたいです.
n°19 記号の外の世界は存在するか
私はこのブログを書いていて,言葉に関してある矛盾に気づきました.
それは,今までしてきた「定義」がただの言いかえにすぎず,言葉だけでは完全に定義することができないということです.
議論するにあたってその言葉がどのような意味を持っているのかというのは非常に重要なことなのに,意味というものは言葉で定義していくとその定義する言葉の定義が必要になり,循環参照に陥ります.
言葉は本当は不完全で,言葉を超越したものでないと言葉の意味が定義できないのではないか.という疑問に私は悩まされていました.
もう少し大きなスケールで言うと,言葉を含め記号で記述できない世界が存在しているのか.という問いは解決しておかないと,このブログを書く意味がなくなってしまったわけです.
まず,言葉の意味って何なんでしょうか.
この議論に辞書を用いることはしたくないのですが,一応引いたところ,
意味の意味:言葉が示す内容
内容の意味:容器や包みなどの,中に入っているもの
中に入っているものといっても言葉は実体ではないため,比喩的な説明になってしまっています.(なんとなく循環参照を避けるためにそうした気がしてしまう.)
確かに意味の意味というのは間接的な方法でのみしか定義できないのでしょう.
なので,私はもう少し解像度を上げて定義していこうと思います.
意味の意味(私の考え):言葉(記号)に関して,脳内の回路が反応したそれ
かなり抽象的な定義になってしまっているので詳しく説明します.
まず,現代の科学では脳はニューロンという基本単位の組み合わせである電気回路でできているのではないかという説が有力となっています.(つまり今回の私の結論を批判するならこの角度から考えると良いと思います.)
そして,私たちは言葉を聞いたり,言ったり,思い浮かべたり(etc)するわけですが,その際にニューロンはお互いに反応し合います.
なので,聞いたり,言ったり,思い浮かべたときの反応の仕方の共通項をとってきたとき,それが言葉の意味なのではないか,というのが私の考えです.(そうすると人によって言葉の意味は変わってくるというのも説明できます.)
どうでしょうか.
つまり,その理論に従って考えると言葉というものを最も低レベルから定義しようとすると,例えば数字を用いて全人類の全ての言葉に関する脳の状態を表すことになるのではないかと思います.
そしてこの考え方は大規模言語モデル(ChatGPT)などにもつながっていく話となります.
話を戻して,言葉を超越する存在があるかですが,
「言葉を超越する存在」という言葉で表すことができていませんか?
つまり,もし存在すると仮定したときにそれ自体言葉で表すことができてしまうということになります.
したがってそのようなものは存在しない.
としたいところなんですが,背理法は数学によって定義される言語体系においてのみ正しいものであり,現実世界でもそうとは限らないので,もう一つのアプローチをします.
言葉で表されるもの全てを数字の羅列のみで表す試みをしてみます.
まず,この世に存在する単語の数を数えます.(ここではn個とする)
そしてそれぞれの単語に1~nの番号を振り,それらを並べたm次元ベクトルを考えると,1つのベクトルは1つの文を表し,それをすべて集めたとき,言葉で表せるもの全体を表すことができます.(これは人間の脳で考えられうるすべての事柄を表しています)
ここで,それらを用いて表せないものが出てきたとき,それに対して例えば「$」と「#」(「0」と「1」にしたかったが,言葉ですでに使っていたため)の羅列を用いることで再び記号であらわすことができてしまいます.
したがって結論は非常に簡単なものになります.
結論:記号の外の世界は存在しない.(もう少しちゃんと言うと記号の外の世界は記号で表すことができる.)
そして,言葉は不完全である.(ここの脳内で起こっている反応の様式を一つの言葉で表してしまっているため)
つまり,問題なのは言葉の外の世界を脳では考えることができない(=感知できない)ということと,言葉を用いずに証明ができるのかということです.
これに関しては私も解決策を現在考えている最中ですので,まとまり次第ブログ書きます.
n°18 数学が正しくない理由
今回は色んな人に読んでもらいたかったので少しキャッチーなタイトルにしてみました.
以前科学が正しいのかについて議論してみたわけですが,実は数学も正しいとは限らないのではないかと思ったんです.
"Je me plaisais surtout aux mathématiques, à cause de la certitude et l'évidence de leurs raisons"
「私はその推論の確実性と明証性により,数学を特に好んでいた」
この文を読んでまあそうだろうと思う人が大半なのではないかと私は思っているのですが,本当にそうでしょうか?
高く評価されている数学はその定義内では正しいものの,その正当性において何か重要な証明がなされていないのではないかと
今回の疑問は以下のようになります.
「数学は正しいか.」
ではまず数学の定義から確認していきましょう.
いつも通り大辞泉には以下のように書かれていました.
「数学」の定義:数量および空間図形の性質について研究する学問
今議論するにあたってこの定義に特に補足しなければいけないことはないのでこのまま続けていきますが,今回は数量の部分に焦点を当てて考えます.
証明では反例が1つでも見つかれば正しくないことを示せますからね(笑)
で,次に数量(数と量)とは何かを考えてみます.
再び辞書を引用すると,
「数」の定義:物の順序を表す語.個々の事物がいくつあるかということを表すもの
「量」の定義:測定の対象となり,大小の比較が可能なもの
じゃあここで出てきた「順(序)」,「いくつ」,「測定」,「大(小)」の意味はというと
「順(序)」:ある基準に従った物事の配列
「いくつ」:個数の不定・不明な時に言う語
「測定」:ある量の大きさを,計器や装置を用いて測ること
「大(小)」:形・規模・数量などの大きいこと
まず,量に関しては循環参照が起きてしまっていることが分かります.また,順序に関しては配列が順序であると定義されているため,同様に循環参照になっています.
つまり,数と量は(現状)言葉だけでは簡潔に説明できないということがわかります.
では数量とは何者なんでしょうか.
🍎🍎
これを見て,私たちは「2」を想像しますよね.でもこれはりんごに限らず,他のさまざまな場面において2を想像することがあると思います.
つまり,あてはまる事象を抽象化することで私たちは2という数字を定義しているわけです.
したがって数量は,私たちの頭の中で高度に抽象化されたものの一つであると定義することができます.(まあ,この定義にも数が用いられていますが,頭の中で理解しやすいように言い換えていると思ってください.)
では数学に戻って考えますが,大学の数学科では1年次に数の定義について学びます.
まず自然数から始めて,整数,有理数,実数と拡張していくわけですが,すべて集合論によって定義されます.
0 := {}
1 := {{}}
2 := {{},{{}}}
...
でもこの定義を満たしていることは,この定義が私たちの考える数字を満たすための十分条件しか満たしていないのではないでしょうか.(私たちの考える数字はすべてこの定義にあてはまるとは限らないということ)
つまり,この定義に当てはまる数量でなければ本来数学はできないはずです.
この判断は数学では行われないという風に決まっているのです.(あくまでモデルにすぎない)
もっとわかりやすく言うと,演算は現実世界に当てはまるとは限らないですよね.
エジソンが幼少期に粘土と粘土を合わせたら一つの粘土になるから1 + 1 = 1ではないのかと思ったという有名な逸話があります.
あくまでモデル化にすぎないという点で結局数学も科学も正確性は変わらないのです.(数学はモデル化の正当性が実験によって確かめにくいため,覆しえないことから正しいと誤解している人があまりにも多いように感じます.)
したがって結論としては以下のようになります.
結論:数学はその内部では正しいが,外部から見たときにその適用方法が正しいとは限らない
一応ですが,私は数学という学問を否定したいとは全く思っていません.
それが絶対的に正しいと盲信することに私は疑問を投げかけたい.
誰かの考えの新しい材料となればうれしいです.
n°17 体罰は悪か
※今回はかなりセンシティブな内容ですが,非常識な結論は導かないので安心して読んでください.(途中の議論は多少常識に反するかもしれませんが,一旦常識を捨て,フラットな視点で読むと良いかもしれません.)
某体罰容認ヨットスクールがありますが,私はそこの校長の提起する疑問"は"(ここ重要)非常に意味があると思っています.
なぜなら私たちは体罰はいけないものだという常識の中で生きているものの,それがなぜいけないのかは暴力であるからとでしか説明されないですよね.
「いや,暴力はいけないでしょ」と思っている人もいると思います.
もちろん法律の上ではいけないもの,また,"正常な"日本人なら倫理的にダメだと思うでしょう.
では,法律にある思想良心の自由に従ってその法律が正しいのかについて考えてみます.
つまり私がここで疑問提起したいのは,
「体罰は暴力であるが,それ以上に子供にとって利益があるのか」
ということです.
体罰は辞書に「肉体に直接苦痛を与える罰」と書かれていますが,ここで議論するのはその内,子供の成長を目的としたものと定義します.
そしてそれが実際に実現可能かどうか考えましょう.
まず,そんなものが存在するかですが,
不登校になって毎日家に引きこもっている学生が,ヨットスクールに強制的に入れられ,それによって更生することができた.
という例が存在する限り,体罰を容認することができる可能性は存在している.
これは納得していただけたでしょうか.
では,肝心の実現可能かですが,
正直分かりません.
これを判断するための材料があまりにも少なすぎます.
つまり,今これについて何かしらの判断を下している人は大した根拠を持っていないということなのです.
例えば,体罰を禁止してから自殺率が上がったとか,ニートが増えたなどという人がいますがもちろんそんなものは何も根拠になっていないですよね.
全て推測にすぎないわけです.
ではここで体罰否定派の意見について考えてみます.
「体罰は正しく使える人がいたとしても,乱用する人がいるからいけない.」
本当にそれだけで判断して良いのでしょうか?
たとえば,「水は人殺しに使えるから,禁止する.」という判断は正しいでしょうか.
もちろん誤りですよね.
ここではどれだけの人が乱用するかということが問題なのではないのでしょうか.
もちろん水を使って人を殺めることはできますが,ほとんどの人はそんなことに用いません.
だから禁止にはならないわけです.
体罰容認派は同じように「包丁は人殺しに使えるが,禁止していないのと同じだ.」と言いますが,同様に否定できます.
正しく使える人の方が多いと判断されたからということです.
また,体罰容認派にはさらにこんな意見を持っている人もいます.
「自動車は事故を起こすから禁止とはならない.」
しかし,これは乱用する人もかなり多いが,それ以上にそれを用いることによる恩恵の方が大きいからであると考えることができます.
以上の議論から,次のような結論が導かれます.
結論:
体罰を容認できる条件
①体罰を受けた子供のうち,本当に成長する人の割合が体罰を受けなかった子供の内,成長しなかった子の割合を上回る.(これは当たり前なので説明はしませんでした.)
②正しく用いることができる人と乱用する人の割合が一定基準を超える.
③乱用による不利益よりも圧倒的にそれを利用することの利益が大きい.
(②と③は関係していますが,一応分けました.)
という条件がそろった,特定の性質を持つグループに対して,体罰を容認することは可能でしょう.
まあ私はそんなこと判断できるほど知識を持ち合わせていないので,最終的な結論はまだ判断しかねます.
しかし,ここで重要なのは常識を疑ってみるというのは選択の幅を増やし,議論をさらに進めることができるようになるということ.
私はこれを伝えたかったわけです.
また,ここでの議論はすべて論理的に行ったものなので,倫理的(感覚的)な議論ではまた別の結論が導かれるかもしれません.
私は今まで科学など論理的な議論の方が成功率が高いという判断の元,以上のような議論をしました.
n°16 思考力は知識量に比例するか
討論をする際に相手の知識不足を否定する人っていますよね.
例えば国会での会議で特定の分野の知識がないことを責められ,ネット上で叩かれたりするのを見たことがあるのではないでしょうか.
また,博識のある人は思考力が高いと思われる傾向にある気がします.
知識がある方が思考力が上がるのか,また,その方が議論において有利なのかということを考えていきましょう.
まず,前提として知識量と思考力には相関があることは認めることとします(これについて議論する必要が感じられなかったため).
この二つの間に因果関係があるのか,そこが論点なわけです.
また,ここで私が議論したい思考力というのはある分野におけるものだとします.
科学を例に挙げて考えてみましょう.
水俣病の原因にいち早く気付いたのは漁民でしたよね(この話題をこすりすぎな気もしますが).チッソ(水銀を海に垂れ流していた会社)にいた科学者はエリート大学出身にもかかわらず,最後の最後まで自分たちが原因だと気づくことはなかったんです.
つまり,知識によって思考が制限されてしまうことがある.素人よりも的外れな結論を導いてしまうことがあるわけです.
これを聞くと知識は思考するために必ずしも必要ないと思えてくるのではないでしょうか.
私もこの疑問を抱いたのでこのブログを書くことにしました.
さあ,ここで言葉の定義をしておきましょう(当たり前に使っている語ほど意味を確認しておくのは重要です).いつも通り大辞泉から引用してきました.
知識の定義:ある事柄について,知っている内容(「知る」というのは脳内にデータとして保存されているというイメージで大丈夫です.)
思考の定義:経験や知識をもとにあれこれと頭を働かせること
「内容」はどういう定義なのかと思うかもしれませんが,そこに関しては一旦目を瞑ってください.重要なのは思考の定義です.
思考というのはそもそも知識を用いた活動なんですよね.
極端な話,思考をするには言葉を知らなければいけませんね.でも,言葉も知識のうちです.
実は,我々は知識という言葉を誤って使っていることがあります.
例えば,科学の知識というと,学校で習った知識を想像する人がほとんどだと思いますが,定義からも分かるようにそれは"科学の知識"のうちの一部にすぎないのです.
実際には日常で経験してきた感覚も知識に含まれています.
したがって,私の考える結論は以下のようになります.
結論:知識は自身が持っている知識の方向にだけ思考力を高める.
これを踏まえて議論においては知識があった方が良いのかということですが,思考するためには知識がないといけないので,必要であるということになりますが,社会的に認められた方向への知識がなければいけないわけではないです.
知識は思考を制限します.
より良い結論を導くためには,現状社会で認められた方向の知識のみで考えてうまくいっていないということは別の方向の知識を持った人が議論に参加することは非常に重要であると思います.知識量によって議論において有利不利は存在しないということになります.(もちろんその使い方によって有利不利は生まれます)
相手の(特定の方向の)知識不足を責めることは議論を停滞させているだけなので,しないようにしましょう.
ちなみに,私は話をイメージしやすくするため,また説得力を高めるためにいくつか例を挙げたのですが,そういう点では知識はあった方が有利なのかもしれません.
でも,説得力があれば正当性があるわけではないので,注意しましょう.
最近文章をあまり書いていなかったのでうまく言葉にすることができなかったのですが,理解してもらえたでしょうか.
何か意見などありましたらなんでも言ってください.
n°15 日本語は難しいのか
いつから言われているのかはわからないのですが,ネットで日本語の難しさについて話題に上がることがしばしばありますよね.
日常会話でも文法を間違えたりすると「日本語って難しい」ということも良くあると思います.
私は別に日常会話で言う分には特に問題はないと考えていますが,これを公の場で言うと誤解が生じる場合があるので注意が必要です.
そもそも日本語って難しいのでしょうか?
本記事ではこれらのことについて議論していきたいと思います.
これはまず誰にとっての難しさなのか,また言語習得の到達地点の定義をする必要があります.
考えられるものは以下の4つでしょう.
ネット上では,これらの内どの難しさについて話し合っているのか決めずに議論をするため,話し合いが全くまとまっていないことがほとんどです.
そもそもこれら4つを混同している人が多すぎるという問題もありますが...
ちなみに言語学では未だ言語の難しさについての結論は出ていないことは先に述べておきます.
難しさとは何かについても確認しておきましょう.
辞書を引くと難しいとは以下のように定義されています.
「難しい」の定義:理解や習得がしにくい.複雑でわかりにくい.(大辞泉)
これを踏まえて争点についてまとめておきます.
- 文法の理解や単語習得の難しさ
- 言語行為(いわゆる4技能)自体の難しさ
ここまで前提を確認したうえででやっと難しさについて議論できるわけです.
また,この記事では総合的な日本語の難しさについて決定できるよう目指していきます.(つまり,ある一部分の難しさだけで判断しないということです.)
1.母語話者が最低限扱えるようになる難しさ
これに関してはしっかりした比較研究のデータがないため,下手なことは言えないのですが,母語話者が話せるようになるまでの速度は大体生まれてから2,3年であると言われています.
つまり,現状母語話者の習得時間に差はないということです.
最低限の読み書きに関しても日本語が難しいとは一概に言うことはできません.
いやいや,日本語にはひらがな,カタカナ,漢字があるから難しいだろうと反論する人もいると思いますが,確かにこれらの文字を暗記することは難しいです.
しかし例えば英語を引き合いに出すと,母語話者でもスペルを覚えることが大変なわけです.英語は日常で用いられる単語数が多いので,その分スペルを暗記することも難しくなります.(フォニックスはこのためにあるわけです.)
また,漢字には読解を簡単にする役割もあります.
「わたしは きょうから えいごの べんきょうを はじめます」
「私は 今日から 英語の 勉強を 始めます 」
漢字に慣れている皆さんは下の文章の方が速く文の意味を理解できるのではないでしょうか.
つまり,日本語の文章は表音文字を用いる言語よりも簡単に理解できる.とも捉えることができてしまいます.
2.母語話者がマスターする難しさ
これはよく議論されているテーマになるのではないでしょうか.
結論は一つです.
言語によって異なるのではなく,個人の言語能力によって異なる.
(言語能力の存在については認めるとした場合)
どの言語にも母語が"話せない"人と言われるはいます.(ここでの話せないとはマスターできていないという意味であることに注意)
これ以上議論することはないので次に行きましょう.
3-4.学習者にとっての難しさ
学習者にとっての難易度はその人の母語に大きく左右されます.
一般に学習する言語が母語と近い語族であればあるほど学習難易度は低くなることは自明です.(それが語族の定義)
以上の考えを基にしてネット上で良く議論されている争点について反論していきましょう.
日本語は主語を省略することが多いため難しい
これ,逆も然りですよね.英語を学習していてやたら主語を書くなと思いませんでしたか?
主語をすべて書いている言語に慣れていれば主語省略を難しいと感じ,主語を省略する言語に慣れていれば主語をいちいち書くことは難しくなるわけです.
一人称が多すぎるので難しい
これについて議論する際に日常ではほとんど使わない語まで挙げることがあります.
日常で使われるのはせいぜい6種類ほどですよね.
そもそもある言語では一つしか言い方がないが,別の言語ではさらに細分化されていることはよくあります.(たまたま日本語はそれが一人称であっただけ.)
例えばフランス語では椅子は11種類ほどいい方があります.
siège, chaise, fauteuil, tabouret, strepotin, transatlantique, chauffeuse, berceuse, canapé, divan
個々の語についての説明は省略しますが,背もたれの有無やひじ掛けの有無,大小,用途によって使い分けられています.
また,ある事柄に関する語彙が豊富であることで文脈判断が楽になります.
たとえば小説で「わたし」「俺」「僕」と出てきたら少なくとも3人はいてそれぞれどんな人かが想像できるわけです.
したがって語彙数だけではその言語の難易度を規定することはできないことが分かります.
敬語が難しい
寧ろ体系化されているだけ簡単なのではないでしょうか.
フランス語では一つの語に対して最大丁寧な語(mos soutenus),日常語(mots courants),砕けた語(mots familier),スラング(argots)の四種類あることがあります.
体系化されているわけでもないのでそれぞれ丁寧な語を覚えなければいけなく,非常に大変です.
また,日本語において大抵の尊敬語は「~られる」,謙譲語は「~させていただく」で違和感ないので簡単に丁寧な表現をすることができ,簡単だと捉えることもできます.
日本語が難しいため,なりすましが簡単に見破れる
どの言語にも言えることではないでしょうか.
上の敬語ともつながる話ですがその言語の言い回しに慣れていなければ見破ることは容易なわけです.
再びフランス語を例に挙げると冠詞のミスや前置詞の使い方,語のつながりでなりすましだと分かります.
オノマトペが多くて難しい
寧ろ日常の事象を音素の組み合わせで表すことができて非常に簡単だと思いますが.
学習者が混乱するのは音象徴を学習しようとしていない場合がほとんどです.
日本語が母語の人はオノマトペには共通する考え方があることはわかるのではないでしょうか.
ここまで様々な争点について議論してきましたが,いずれも日本語が難しいことの根拠になっていないことが分かったと思います.
まとめると
結論:日本語が難しいという主張は現状根拠に乏しい
ちなみに意外な(学習者にとっての)日本語の難しさがあります.
それはピッチアクセントです.
ピッチアクセントって意外と規則性がないんですよね.
東京式アクセントではn拍語に対してn種類
京阪式アクセントではn拍語に対して2n-1種類あります.
だから日本語の難しい語彙は使いこなせるのにイントネーションは変な外国人がいるわけですね.
これだけで他の言語よりも総合的な難しさを決めることはできませんが,この点において日本語は学習者がマスターすることが難しいとはいえると思います.
長くなりましたが,ここまで読んでいただきありがとうございます.
反論,誤りなどありましたら言っていただけると非常に助かります.
n°14 哲学とは何か
哲学をするモチベーション
哲学やってるて言われるとなんか触れづらい空気ありますよね.
なぜなんでしょうか.
私の考える理由は二つです.
- 「哲学」という言葉がプロパガンダに多用されすぎて思想強そう.
- 真実を知るのが怖い.
1は宗教や生き方に関する書籍で人生哲学とか言ってるものを見かけることが多いため,思想が強そうなイメージがついてしまったのかと思っています.
2は哲学の定義に関係しています.
辞書での意味は以下のようになっています.
哲学の定義:世界・人生などの根本原理を追究する学問.
ではなぜ真実を知るのは怖いと思うか.これは帰納的に考えてみると分かるかもしれません.
例えば,大好きだった芸能人が不倫していたら幻滅すると思いますが,同時に恐怖も感じるのではないでしょうか.
知らぬが仏という言葉があるように,知らなければ不幸にならなかったのにと思うことは良くあります.
このように真実を知ることにはしばしば代償もついてくるんですよね.
なので触れにくい空気感があるのではないかと思っています.
私は哲学の定義をこのように解釈しています.
哲学の定義の解釈:未知の事柄に疑問を投げかける行為
そう.このブログのタイトル「様々なことに疑問を投げかけてみる」自体哲学だということです.
そして,哲学は間違っているという意見もたまに聞きますが,そもそも一学問が正しいかどうかなんて現状誰も検証できないんですよ.
科学が正しいかどうかを検証できないこともブログで取り上げました.→ n°5
哲学が最も重きを置いているのは疑問を投げかける行為自体なのです.常識に疑問を投げかけずに常識が正しいか説明できるわけない.そういうモチベーションです.
今まで取り上げたものだと,
・偽善は悪い
・LGBTQは悪ではない
・経験固執主義は良くない
・(日本では)竹島は日本の領土である
これらの正当性を一度も疑ったことがないのに議論することができるんですか?
そう私は皆さんに問いかけたい.
人類の進歩は革命(哲学)によるものだ
歴史では色んな改革が起きたわけですが,その度に人間社会は前進したり失敗して後退してきました.
人類が変化する必要条件が改革になるわけではないので注意してほしいのですが,疑問を投げかけることは変化を起こすための十分条件になると私は考えています.
ならば全人類が哲学をするべきかというと,そうではないと思っています.
そもそも人間の脳のメモリには限界があるとされているため,この世のあらゆる学問にエネルギーのリソースを割くことは非常に難しいわけです.
そして時には哲学をやることによって,真実であってもおかしくない答えが導かれることもあります.それを覚悟せずにやると失望することもあるでしょうから,私はやりたい人だけやるべきだと思います.
しかし,社会を変えたいまたは常識を盲信したくない人はやってみることをおすすめします.
この世になんの前提もなしに正しいと言える理論は現状存在していません.
哲学に答えはないんです.
それでも追求してみたい方,哲学の歴史なんてやらなくてもいいので初めは疑問を生成AIに投げかけることからスタートしてみてはいかがでしょうか.
または私のブログを読んでそれにツッコんでください.もうそれは哲学です.